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西行辞典

件名: 西行辞典 第381号(181006)
2018/10/06
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・381(不定期発行)
                   2018年10月06日号

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         今号のことば    

       1 物語・ものがたり 02

百枝の松→第366号「みもすそ・御裳濯川」参照
桃ぞの→第136号「心地(02)」参照
もりがほ→第93号「数ならぬ身・数に入るべき」参照
もらぬ岩屋→第358号「みたけ・御嶽 01」参照
唐土→第107号「唐国・唐土」参照

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       ◆ 物語・ものがたり 02 ◆

【物語・ものがたり】

話し合い・雑談のことです。

04番歌の「源氏物語」は散文の表現形式で書かれた紫式部による著作
の題名です。古典文学、平安女流文学として、あまりにも有名な著作
です。この「源氏物語」のみが、この項目での固有名詞です。

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     源氏物語の巻々を見るによめる

04 萠えいづる峯のさ蕨なき人のかたみにつみてみるもはかなし
            (岩波文庫山家集282P補遺・夫木抄)

○源氏物語

平安時代の最高峰の著作物の一つで、形式は長編小説。「源氏物語」
はその題名で固有名詞。作者は紫式部。

○さ蕨(さわらび)

新芽を出したばかりの「蕨」のこと。(早蕨)と表記します。「さ」は
接頭語。
早春に薄茶色の綿毛をかぶり、拳を握ったような新芽を出します。
この萌え出たばかりの新芽を「さわらび」と呼び、古来から多くの
歌に詠まれてきました。
山菜として摘むことを「蕨狩り」と言います。わらびのあくを抜き、
そのぬめりと香りを楽しむ食習慣は日本全国にあったとのことです。
わらびの地下茎を加工したものを「わらび粉」と言い、わらび餅は
「わらび粉」から作られます。

源氏物語第四十八巻に「早蕨」があります。宇治十帖のうちの一巻
です。この巻に下の歌があります。
04番の西行歌は源氏物語にあるこの歌の本歌取りと言えます。

 「この春はたれかに見せむ亡き人のかたみにつめる峰の早蕨」

○なき人

亡くなった人。人物名は誰か不明です。

○かたみ

(形見)と(籠=かたみ)をかけている掛詞です。籠には摘んだ蕨を
入れます。

(04番歌の解釈)

「萌え出し(芽を出して)ている峯のわらびを亡き人の形見に
つんでみるのもはかないことだ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

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      かくて静空・寂昭なんど侍りければ、もの語り申し
      つつ連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、寂然
      まできてせなかをあはせてゐて、連歌にしけり

05-1 思ふにもうしろあはせになりにけり
       (前句、寂然?)(岩波文庫山家集264P残集14番)

   この連歌こと人つくべからずと申しければ

05-2 うらがへりつる人の心は
        (付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集14番)

○静空

想空の誤記と思われます。
想空については判然としません。藤原為盛説と藤原為業(寂念)説が
あり、窪田章一郎氏は「西行の研究」298ページで「想空は寂念とは
別人であり、長兄の為盛ではないかと考えられる。」としています。
この卓見に私も賛同します。

○寂昭

寂超の誤記と思われます。
寂超は生没年未詳。藤原為忠の三男とも言われ大原三寂「常盤三寂」
の一人です。西行ととても親しかった寂然の兄です。
俗称は為隆(為経とも)とも言われます。西行より3年遅れて
1143年の出家。子の隆信は1142年生まれですから、生まれた
ばかりの隆信を置いて出家したことになります。
女房の「加賀」は後に俊成と結婚して定家を生んでいますから、
隆信は定家の同腹の兄になります。

○まできて

「やってきて・・・」というほどの意味。「まで」は「詣で=まうで」
の変化した用い方。「う」を省略した用法。

○せなかをあはせてゐて

座って背中をくっつけていること。「ゐて」は座って在る状態。

○思ふにも

思い合っている男女の仲を指していると解釈できます。

○こと人つくべからず

「思ふにも…」の前句を詠んだ人が、付句には西行を指名して、
他の参加者は付けて詠んだらいけない、と指定したもの。

○うらがへりつる

「背中合わせ」に即応して、「心も離れて反対になっている」と
いうことを即興的に詠んでいます。

(05-1番連歌の解釈)

「思い合っている仲でも背中合わせになってしまったよ。」
       (前句・作者不明)(和歌文学大系21から抜粋)

(05-2番連歌の解釈)

「君が心変わりしてしまったからね。」
         (付句・西行)(和歌文学大系21から抜粋)

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      後の世のものがたり各々申しけるに、人並々にその
      道には入りながら思ふやうならぬよし申して  静空    

06-1 人まねの熊野まうでのわが身かな
      (前句、静空)(岩波文庫山家集265P残集15番)

      と申しけるに

06-2 そりといはるる名ばかりはして
      (付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集15番)

○後の世のものがたり

死後についての話し合い。

○その道に入り

出家して仏道に入ったということ。

〇静空

「静空」は前述。
「想空」は他に179ページに西行との贈答歌があります。

○熊野まうで

「熊野」は和歌山県にある地名。熊野三山があり修験者の聖地です。
平安時代には皇室をはじめ庶民も盛んに熊野詣でをしました。
京都からは往復で約20日間かかっています。

○そり

僧侶のことです。(そうりょ)を縮めて使った言葉かもしれません。
熊野に関係する人たちが使った言葉らしく、あるいは侮蔑語の
可能性もあります。

(06−1番連歌の解釈)

「人真似に熊野詣でをするわたしよ。」
       (前句・静空)(岩波文庫山家集265P残集15番)
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06−2番連歌の解釈)

「名ばかりは坊さんと言われて。」  
       (付句・西行)(岩波文庫山家集265P残集15番)
                (和歌文学大系21から抜粋)

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       いまだ世遁れざりけるそのかみ、西住具して法輪に
       まゐりたりけるに、空仁法師経おぼゆとて庵室に
       こもりたりけるに、ものがたり申して帰りけるに、
       舟のわたりのところへ、空仁まで来て名残惜しみ
       けるに、筏のくだりけるをみて

07-1 はやくいかだはここに来にけり 
      (前句、空仁)(岩波文庫山家集267P残集22番)

       薄らかなる柿の衣着て、かく申して立ちたりける。
       優に覚えけり

07-2 大井川かみに井堰やなかりつる
      (付句、西行)(岩波文庫山家集267P残集22番)

○空仁法師

生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
からわかります。
空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしょう。
俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
空仁の歌は千載集に4首入集しています。

かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
             (空仁法師 千載和歌集1119番)

○柿の衣

渋柿の渋で染めた衣です。茶色っぽい色になります。僧服です。

○優に覚え

麗しく優れているように見える様子。

○井堰

原意的には(塞き)のことであり、ある一定の方向へと動くもの
を通路を狭めて防ぐ、という意味を持ちます。
水の流れをせきとめたり、制限したり、流路を変えたりするために
土や木材や石などで築いた施設を指します。現在のダムなども
井堰といえます。
今号の西行歌は、当時の大堰川で井堰の設備が施されていたこと
の証明となります。古くからこの辺りを管轄していた秦氏が井堰を
造ったそうです。当時の井堰が現在も渡月橋上流にもあります。

尚、平安時代には「法輪寺橋」がありました。法輪寺の僧の「道昌」
が架けたものです。現在の渡月橋や一の井堰の上流にありました。
「法輪寺橋」と言われていたその橋を「渡月橋」と名付けたのは
亀山天皇(1249-1305)です。
渡月橋が現在地に移されたのは、保津川を開削した角倉了以によって
です。現在の渡月橋は昭和9年に架橋。何度か改修しています。
洪水被害で何度も橋は流されていて、西行が橋を渡らずに「筏」で
渡ったということは橋が流されていた頃なのでしょう。

(07-1番詞書の解釈)

「まだ出家をしなかった昔、私は西住を連れて法輪寺に参詣した
時に、空仁法師がお経を覚えるのだと言って庵室に籠っていたが
その空仁法師と物語をしてかえったが、舟の渡し場まで空仁が
送っ
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