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西行辞典

件名: 西行辞典 第373号(180615)
2018/06/15
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・373(不定期発行)
                   2018年06月15日号

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         今号のことば    

         1 御幸・みゆき 02
         2 みるめ
         3 むかはし
         4 むぐら・葎 01

み雪→第312号「ふり・ふる (2)」参照
御代→第311号「ふり・ふる他 (1)」参照
み吉野→第274号「春+雪 (1)」参照
麦笛→第284号「人々よみける(3)」参照

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       ◆ 御幸・みゆき 02 ◆

【御幸・みゆき 02】

御幸(みゆき・ごこう)=上皇、法皇、女院などの外出を指します。
行幸(みゆき・ぎょうこう)=天皇の外出を指します。

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      上西門院の女房、法勝寺の花見られけるに、雨の
      ふりて暮れにければ、帰られにけり。又の日、
      兵衛の局のもとへ、花の御幸おもひ出させ給ふ
      らむとおぼえて、かくなむ申さまほしかりし、
      とて遣しける

02-1 見る人に花も昔を思ひ出でて恋しかるべし雨にしをるる
       (西行歌)(岩波文庫山家集27P春歌・新潮101番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)
 
02-2 いにしえを忍ぶる雨と誰か見む花もその世の友しなければ
      (兵衛局歌)(岩波文庫山家集27P春歌・新潮102番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

     若き人々ばかりなむ、老いにける身は風の煩はしさに、
     厭はるることにてとありけるなむ、やさしくきこえける
     (西行の詞書)(岩波文庫山家集27P春歌・新潮102番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

 上記二首は兵衛の局との贈答歌です。

○上西門院

鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・
むねこ)内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇、
覚性法親王がいます。1189年7月、64歳で崩御。
幼少の頃(2歳)に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。
1145年に母の待賢門院が没すると、その遺領を伝領しています。
1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに二条
天皇に譲位して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母
となり、1159年2月に上西門院と名乗ります。
それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人となり、源頼朝が蔵人
となっています。
同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条
天皇、そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。
1160年1月に義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に配流
されています。
上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係がある
のかも知れません。生涯、独身で過ごしています。
          
高野山に蓮華乗院を建立した五辻斎院頌子内親王や八条院ワ子内親王は
異母妹になります。

○法勝寺

法勝寺は白河天皇の御願寺として1075年に造営に着手されました。
もともとは藤原氏の「白河殿」があった場所です。この地は白河
天皇が藤原師実から献上を受け、そこに法勝寺は建立されました。
1077年の末には洛慶供養が営まれています。順次、伽藍が増築され
て1083年には高さ82メートルという八角九重の塔が完成しています。
ところが、この塔も約100年後の京都大地震で「うへ六重ふり落とす
(平家物語巻十二、大地震)」と被災しています。1185年7月のこと
です。
九重塔は度重なる落雷や火災に見舞われ、1342年の火事で焼亡
してからは再建されていません。
場所は現在の京都市動物園を中心にした一帯です
現在、動物園内に九重の塔の碑文があります。

『法勝寺及び六勝寺』
  
六勝寺は、この法勝寺の近くの「勝」の文字が用いられた六寺を指し
ます。すべて法勝寺の付近、岡崎公園一帯にありました。現在も
法勝寺、円勝寺、最勝寺、成勝寺は町名として残っています。
いずれも焼亡などにより応仁の大乱後までには廃寺になっています。
  
尊勝寺は堀川天皇のご願により建立。1102年落慶供養。 
最勝寺は鳥羽天皇のご願により建立。1118年落慶供養。
円勝寺は待賢門院のご願により建立。1128年落慶供養。
成勝寺は崇徳天皇のご願により建立。1139年落慶供養。
延勝寺は近衛天皇のご願により建立。1149年落慶供養。 

角田文衛氏著「平安の都」では、地震による被害については
触れていません。1169年、1174年、1176年、1208年に落雷被害が
あったと記述されています。

○兵衛の局

待賢門院と上西門院に仕えた女性です。西行と親しかった歌人です。
詳しくは290号・291号の「兵衛の局」の項を参照願います。

○花の御幸

「花の御幸」とは、百錬抄の1124年2月12日条にある「両院、臨幸、
法勝寺、覧、春花・・・於、白河南殿、被、講、和哥」とある花見を
指しているもののようです。新潮版の山家集でも、そのように解釈
されています。
とするなら、1124年は西行6歳。上西門院の出生は1126年ですから、
この2年後に生まれたということです。1185年頃に死亡したとみられる
兵衛の局は、この詞書と歌を信じるなら、すでに待賢門院には仕えて
いて、花の御幸に随行したということでしょう。1105年ほどの出生に
なるのでしょうか。 

「花も昔」「いにしへ」の言葉も、1124年のこの花見のことを指します。

○友しなければ

この歌の場合「友」とは花の友である兵衛自身をいいます。
「し」は強意の副助詞で「し」の前の言葉を強調します。

(02−1番歌の解釈)

「かつての御幸に随われた人が桜を見に来られたので、桜の花も
あなたと同じように昔の事を思い出して恋しく思ったのであり
ましょう。懐旧の涙にぬれてしおれております」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02−2番歌の解釈)

「花見御幸の昔をしのんで涙が雨となったとは誰が見ましょうか。
桜の花もその昔の友である私がいなかったことですから」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

◎歌と詞書から類推すると兵衛の局は風邪のために欠席したようにも
 受け止められます。しかし実際には参加していました。

◎この贈答歌は詞書にある「上西門院の女房、法勝寺の花みられけるに」
 によって、1159年から1160年頃の詠歌とみなされます。 

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  讃岐の位におはしましけるをり、みゆきの
すずのろうを聞きてよみける

03 ふりにける君がみゆきのすずのろうはいかなる世にも絶えずきこえむ
            (岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1446番)

○讃岐の位
 
讃岐の院としてあったということ。讃岐院のこと。
保元の乱後に讃岐の国に配流され、1156年から1164年崩御まで讃岐に
住んだ崇徳院のこと。1177年に崇徳院の諡号が贈られましたから、
「讃岐の位」とは1156年から1177年までの崇徳上皇を指します。

○みゆきのすずのろう

「すずのろう」は「鈴の奏」のことです。
天皇の行啓の際に用いる鈴を賜るように少納言が奏上することです。

○ふりにける

ここでは鈴を振ること。同時に古くなったことを意味します。
天皇の御幸の時に、先触れとして鈴を振り鳴らしていたそうです。

「讚岐の位におはしましけるをり」という文言をそのまま受けとめ
れば、「古り」の意味が強くなります。しかし、この歌は崇徳天皇の
永遠の治世を願い寿ぐ歌なのですから、崇徳天皇在位中(1123年〜1141年)
の詠歌の可能性があります。そうであれば「ふり」は「振り」の
意味が強くなります。

(03番歌の解釈)

「崇徳天皇の行幸。鈴の下賜を願い出る奏上が聞こえて、鈴が
高らかに鳴り響く。いつまでも永遠に鈴は鳴り続けることだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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     をさめまゐらせける所へ渡しまゐらせけるに

04 道かはるみゆきかなしき今宵かな限のたびとみるにつけても
     (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮783番・西行上人集・
                宮河歌合・玉葉集・西行物語)

○をさめまゐらせける所

この歌は鳥羽院崩御後の「今宵こそえ思ひしらるれ…」に続く歌です。
崩御後の「をさめまゐらせける所」とは同じ鳥羽離宮の安楽寿院の
三重塔を言います。

○道かはる

現世で生活してきた道から、来世への道をたどるということ。

○限のたび

安楽寿院と三重塔はほんの少し離れています。物理的にはその
短い距離を「たび=旅」とみなしているものでしょう。
しかし気持ちの上では生者から死者に、そして死者が冥界を辿る旅です。

(04番歌の解釈)

「冥界への御幸を今夜拝見するのが悲しい。最後には避けられない
旅路とわかってはいても。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

「最後の御幸としての葬送を歌っているが、西行としては在俗の
ころの供奉の数々が思い浮かべられるのであって、この一首のうち

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