まぐまぐ!
バックナンバー

西行辞典

件名: 西行辞典 第364号(180210)
2018/02/10
送の時、
延暦寺・興福寺の大衆、額打論と云事し出して、互いに狼藉に
及ぶ。(後略)」(平家物語から抜粋)
  
葬送の儀式なのに僧達は刀、槍をたずさえて臨んでいることが
分かります。
この後に興福寺側の狼藉が記述され、その果てに東山の清水寺が、
興福寺の関係する寺というだけで延暦寺の攻撃を受けて炎上して
います。
鴨の流れとすごろくの目と山法師はどうにもならないと白河院が
嘆くのも当然です。この頃の僧達は武装化して争いを繰り返して
いました。 

新潮日本古典集成では、「太秦香隆寺で荼毘に付し、山城香隆寺
に葬る」と記載があります。太秦香隆寺は太秦広隆寺のことかと
思います。山城香隆寺の寺名の記載は見当たりませんから陵墓名
なのでしょう。広隆寺と関係ありそうですが太秦からは離れています。
太秦の広隆寺は1150年に全焼、1165年に再建供養があったばかりです。
この再建供養は1165年7月以前のことだろうと思います。

「太秦香隆寺で荼毘に付し・・・」を信じるならニ條院の遺骸は
広隆寺で荼毘に付して、現在の等持院近くの香隆寺陵に葬られた
ものでしょう。尚、この香隆寺の陵墓も中世には歴史の流れとともに
荒れ果ててしまって、どこにあるか特定不可だったものを資料を
もとに比定されたものであり、必ずしも現在地が本来の香隆寺陵で
あるかは疑問です。
平家物語の記述では土葬と解釈するしかなく、葬送地も山城香隆寺
ではなくて船岡山となっています。

左京区神楽岡にある菩提樹院陵の被葬者にニ條院とする資料もあり
ますが、これはニ條院という建物に住んでニ條院とも呼ばれた
後一條天皇の第一皇女、章子内親王のことです。ニ條天皇の陵墓
ではありません。
菩提樹院陵は在原業平の墓と言われていたものですが、それを
明治22年になって後一條天皇と章子内親王の陵墓として比定され
たものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもと
      おぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の
      御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは
      誰がことぞと又問ひければ、實方の御ことなりと申し
      ける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれに
      おぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、後に
      かたらむも、詞なきやうにおぼえて

04 朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
           (岩波文庫山家集129P羈旅歌・新潮800番・
         西行上人集・山家心中集・新古今集・西行物語)

○みちのくに

「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。

大化の改新の翌年(646年)に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島県以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。

○まかりたる

出向いて行くこと。

○常よりもとおぼしき

普通より、ということ。野中にはありえない立派な塚・・・と
いう意味になります。
没後150年ほどを経ても実方の墓として誰かに管理されていたと
解釈していいものと思います。

○中将の御墓
    
藤原実方の墓のこと。現在も宮城県名取市愛島の野中にあります。
「朽ちもせぬ」歌の石碑も立っていますが文面は風化していて
判読できません。
現在の歌碑は藤原実方800年遠忌のために1798年に建立されました。

○さらぬだに

そうでなくとも・・・という意味。墓は他の場所よりも哀感を
覚えさせるということを言っています。

○朽ちもせぬ

藤原実方の歌の名声は不朽のものであり、歌人としての名前は
いつまでも忘れられないものであるということ。

○枯野の薄

現在も藤原実方のお墓に行く前に薄が植えられています。いかにも
とって付けたようで笑ってしまいました。
あろうことか、外国産の薄のようです。

○あだに命の露

(あだ)は誠意がない、空しい、意味がない…などを表す言葉。
(命の露)は短く、はかないことを言う「露の命」と同義です。

○知られず知らぬ人

自分が死亡した後の事だから当然に事後のことは自分では知る
ことができないし、かつ、ずっと後の世の人も自分が生きてきた
ことなどは知ることもないということ。

(04番歌の解釈)

「不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を
埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【藤原実方】

生年不詳、没年は998年11月とも12月とも言われます。陸奥守として
陸奥に赴任中に客死しました。40歳に満たない年齢と思われます。
藤原北家流師尹(もろただ)の孫。父の定時が早世したので叔父の
済時の援助を受けて育ったといわれます。
左近将監、侍従、左近少将、右馬頭などを歴任して、994年に左近
中将。翌年に陸奥守として陸奥に赴任。

「古事談」によると、藤原行成との軋轢があり「歌枕見て参れ」
と一条天皇から命を受けて陸奥守に左遷されたとあります。
実方が陸奥に赴任したのは、その説以外にも自発説ほかいくつか
の説があります。どれが本当か分かりません。
「源平盛衰記」によると陸奥国笠島の道祖神社の前を下馬せずに
通り過ぎたために、道祖神の怒りに触れて、落馬して命を落としたと
書かれています。
お墓は現在の宮城県名取市愛島にあります。1798年建立の西行の
「朽ちもせぬ」歌の歌碑も建っています。ただし碑文は殆ど読み
取れません。
家集に「実方朝臣集」があります。中古三十六歌仙の一人です。

この歌は確実に初度の旅の時の歌ですが、同じ旅の時の一連の
歌から離れて一首のみ、ぽつんと採録されています。そのことが
気にはなります。

なお、芭蕉の「おくのほそ道」では、芭蕉は行き過ぎて実方の墓
には行かなかったのですが、人から聞いたこととして、「形見の
薄今にあり」と書いています。
「おくのほそ道」は脚色が多くて、そのままでは信用できません。
ですが、同行した曽良随行日記と照らし合わせると旅の実際の
様子が分かります。曽良は「行過テ不見」とのみしたためて
います。従って芭蕉が行った当時は「形見の薄」があったのか
どうかは不明です。

白州正子氏は「西行」の中で以下のように記述しています。
「竹林の入り口に、勅使河原流の外国産の枯尾花が植えてあり、
大げさに(かたみの薄)と記してある。いうまでもなく「奥の
細道」の「かた見の薄今にあり」の薄で、歌枕もここまでリアリ
ズムに徹すれば何をかいわんや。」

実方は死後に雀に姿を変えて都に戻ってきたという伝説があり
ます。もとは中京区にありましたが移転して現在は左京区にある
「更雀寺」が、その伝説を留めています。

************************************************************

          ◆ みほかさき ◆

【みほかさき】

「八雲御抄」「五代集歌枕」では駿河の「美保浦」が相当するものと
しています。静岡県静岡市美保のことです。景勝地の「三保の松原」
で有名です。富士山ももちろん見えます。
西行は美保には実際に行ったことがあるはずだと思います。
出雲にも「美保」があります。美保の歌はこの一首しかありません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 おなし月のきよする浪にゆられきてみほかさきにもやとるなりけり
                    (松屋本山家集)

○ おなし月

空に浮かんでいるのと同じ月、の意味。

○きよする浪にゆられきて

浪の運動が月を運んでくるという感覚で詠まれています。           

(01番歌の解釈)

「何処にも同じく照る月が打ち寄せる波にゆられて来て、ここ
美保が先にも宿ることである。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

************************************************************

  (後記)

2月3日節分、2月4日立春。2月15日旧暦大晦日、2月16日旧暦元旦。

    年のうちに春たちて雨の降りければ

 春としもなほおもはれぬ心かな雨ふる年のここちのみして
          (岩波文庫山家集13P春歌・新潮1060番)

今年もまた年内立春です。旧暦では年内立春が多く、確か二年に
一度程度の頻度だったと思います。旧暦で新年になるのは2月16日。

ちなみに旧暦元旦の2月16日は西行忌。とはいえさすがに西行忌と
言っても季節的に情趣がないので、旧暦が良いとは思います。
今年の旧暦2月16日は新暦4月1日。桜も結構咲いているでしょう。
1190年の2月16日は現在の暦に直すと3月30日だったと記憶しています。
やはり桜の咲く頃が西行忌にふさわしく、西行法師に対しての
供養にもなりそうです。

さて桜、現在はいろんな種類の桜があって、山桜が主たる桜の品種
であった西行時代とは大きく異なります。
その分、私たちはいろいろな桜を楽しめはするのですが、しかし
一方では人工的に作り出された品種が多すぎて、いささか興醒めの
思いもします。
でも基本的に開花は春四月、一年に一度巡ってくる季節、大いに
楽しみたいものです。

************************************************************

■  登録/解除の方
<戻る|続き>

前号|次号|最新
バックナンバー一覧

s登録する
解除する

利用規約
ヘルプ
メルマガ検索
マイページトップ
まぐまぐ!トップ