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西行辞典

件名: 西行辞典 第356号(171023)
2017/10/23
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・356(不定期発行)
                   2017年10月23日号

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          今号のことば

          1 みかり
          2 みくまの・三熊野
          3 みさを
          4 みさご
          
三上が嶽→第313号「ふり・ふる (3)」参照
三河→第249号「ぬまの八つ橋」参照
三河の入道→第173号「寂照(三河入道)」参照
三河内侍→第352号「御跡」参照
みき→第337号「まかり・まかる 03」参照
みきしま→第344号「まかり・まかる 10」参照
御ぐし→第246号「仁和寺」参照
砌→第315号「ふり・ふる (5)」参照
みくさ→第341号「まかり・まかる 07」参照
御心→第289号「ひま・隙 (02)」参照
御子左家→第304号「藤原俊成(ふじわらとしなり)(1)」参照
みこし→第92号「かしこまる」参照

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       ◆ みかり ◆

【みかり】

「御狩=みかり」のことです。皇室の行事として、鹿や鳥類などの
動物を狩ったり、桜狩りや紅葉狩りなどの植物を愛でることを言い
ます。狩りの場所が「御狩野=みかりの」です。

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01 降る雪にとだちも見えず埋もれてとり所なきみかり野の原
          (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮525番)

○とだち

新潮版山家集でも和歌文学大系21でも「鳥立」としています。鳥が
飛び立つことを言います。

○とり所

特徴のこと。取り柄のこと。「とだち」の縁語。

○みかり野の原

朝廷が狩りをするために定めている野のこと。朝廷の狩場であり、
禁野地です。

(01番歌の解釈)

「降りしきる雪のために、鳥立も見えないほどあたり一面は
埋もれて、どうしょうもないみ狩野の原だよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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   嵯峨野の、みし世にもかはりてあらぬやうになりて、
     人いなんとしたりけるを見て

02 此里やさがのみかりの跡ならむ野山もはてはあせかはりけり
         (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1423番)

○嵯峨・嵯峨野

東は太秦、西は小倉山、北は上嵯峨の山麓、南は大井川(桂川)
を境とするほぼ平坦な野。往古は葛野川(現桂川)の溢水による
沼沢地で、未墾地が大半を占めていたが、秦氏一族が川を改修し、
罧原堤(ふしはらつつみ)の完成によって田野の開拓が進み、
肥沃な地となった。
「三代実録」882年12月条には平安遷都後は禁野とされて、天皇、
貴族はここで遊猟し、若菜を摘んで遊楽をした、とある。
嵯峨天皇の嵯峨院(現大覚寺)、後嵯峨上皇の亀山殿(現天竜寺)、
檀林皇后の檀林寺などをはじめ、兼明親王の雄蔵殿(おぐらどの)や
歌人藤原定家の山荘など、貴神の邸館や大寺が営まれ、文学の舞台
ともなった。        
         (以上、平凡社刊「京都市の地名」より引用)

○みし世にもかはりて

西行が在俗時代に実際に見た頃と違って・・・というような解釈
で良いと思います。しかし書物なりで読み、人からも聞いたりして
西行出生より前の嵯峨野が賑わっていた頃までもを指しているとも
受け取れます。

○さがのみかり

嵯峨野における春の桜狩、秋の紅葉狩を言います。
しかし西行が出生してから出家するまでの間に皇室の御幸は記録が
ないようですし、公の行事は無かったものでしょう。

(02番歌の解釈)

「この里が、昔桜狩や紅葉狩の行われた嵯峨野の跡であろうか。
今はすっかり荒れはて、昔の栄華の跡も色褪せ変わってしまった
ことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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       ◆ みくまの・三熊野 ◆

【みくまの・三熊野】

「み」は美称の接頭語としてではなくて、「三」と理解した方が
良いと思います。
熊野本宮大社、熊野早玉大社(新宮)、熊野那智大社の三社を
言います。

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01 三熊野のむなしきことはあらじかしむしたれいたのはこぶ歩みは
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1529番)

○むなしきこと

一心に信仰、祈願をすれば必ず叶えられるので、望みが叶えられない
ことの失望を味わうことはないだろう…ということ。

○あらじかし

(あら)は(在り)の未然形。(じ)は助動詞で、打消しの推量と
して作用します。また、否定の意志を表します。
「在る・知る」などと結びついて、「在らじ」「知らじ」と変化して、
元の語を否定する形で用いられます。
(かし)は終助詞です。意味を強める作用があります。
「あらじかし」で「ないだろう……」という意味になります。

○むしたれいた

苧麻(からむし)の繊維で作った垂れ衣で、周囲を覆われた板。
別説として和歌文学大系21では「むし垂衣(苧の繊維で織った布。
笠から垂らす)を付けた熊野神社の巫女。熊野では巫女のことを
「イタという」とあります。

(01番歌の解釈)

「熊野三山は、祈願をすれば必ずかなえられ、むなしく終ると
いうことはないだろう。むしたれぎぬで周囲を覆われた御神体
が動座される折の人々の歩みを見ているとそう思うよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋) 

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02 みくまのの濱ゆふ生ふる浦さびて人なみなみに年ぞかさなる 
          (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1023番・
                 西行上人集・山家心中集)
○濱ゆふ

ヒガンバナ科の常緑多年草。観賞用に栽培され、純白の花をつけ
ます。ハマオモトのことです。
和歌では、重なりや乱れる心の形容として使われます。

○人なみなみ

(なみなみ)の「なみ」は「並」と「波」の掛詞です。波は浦の
縁語です。「なみなみ」と同じ言葉を続けることによってリズムを
持たせ、かつ、ハマユウのもつ重なりの意味にも合わせています。

(02番歌の解釈)

「み熊野の浜木綿が生えている浦がさびしいように、自分の心中
もさびしく、浜木綿の葉が重なるように自分も人並みに年だけは
重ねることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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03 霞さへあはれかさぬるみ熊野の濱ゆふぐれをおもひこそやれ
   (寂蓮法師歌) (岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)

03番歌は下の西行歌に対しての寂蓮の返し歌です。

     熊野に籠りたる頃正月に下向する人につけて遣しける
     文の奥に、ただ今おぼゆることを筆にまかすと書きて

  霞しく熊野がはらを見わたせば波のおとさへゆるくなりぬる
   (西行法師歌)(岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)

○あわれかさぬる

霞に煙る熊野の情景の「あはれさ」と、夕暮れの何とも言えない
「あはれさ」。重層的な「あはれさ」を思わせます。

○浜ゆふぐれ

花の「はまゆう」と「浜の夕暮」の情景を重ね合わせています。

○熊野

和歌山県にある地名。熊野三山があり修験者の聖地ですが、特に
平安時代後期には皇室をはじめ庶民も盛んに熊野詣でをしました。
京都からは往復で600キロメートル以上あり、それを20日間ほどで
往復していますから当時の人たちの健脚ぶりがわかります。
熊野には熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社があります。
(み熊野)の(み)は美称の接頭語です。
ただし「三熊野」という時は、熊野三社を指します。

○熊野に籠りたる

西行自身が熊野大社に籠っていたことをいいます。「熊野がはら」
ということは熊野三社のうち熊野速玉大社「熊野新宮」に籠って
いたものと思われます。
熊野速玉大社は西行時代当時も熊野川近くにありました。

○下向

熊野詣でを済ませて帰途につく人を指しています。

○ゆるくなりぬる

厳しい寒さをやり過ごしての、季節は待望の春に向かう。本格的な
春が待たれる気持を表しています。

(03番歌の解釈)

「霞までもあわれな気持を重ねているみ熊野の浜の浜ゆふ
(夕ぐれをかける)の茂っている夕暮のあわれなけしきを思い
やることだ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(西行歌の解釈)

「霞が一面にたなびいている熊野の海面を見わたすと春になった
と見えて波の音までものんびりときこえてくる。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

○寂蓮

生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没。父は藤原俊成の兄の
醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。30歳頃に出家。
数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。御子左家
の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。家集に
寂蓮法師集があります。

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