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西行辞典

件名: 西行辞典 第360号(171224)
2017/12/24
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・360(不定期発行)
                   2017年12月24日号

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         今号のことば    

       1 みちのくに・陸奥国 02

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       ◆ みちのくに・陸奥国 02 ◆

【みちのくに・陸奥国】

「道の奥の国」という意味で、陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路が
秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。

大化の改新の翌年(646年)に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島県以北は陸奥の国と出羽の国の二国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。出羽の国は山形県と秋田県を指します。

ここでは「みちのくに」だけでなく、「陸奥」という名詞の入って
いる詞書と歌も同時に取り上げます。加えて、最後に陸奥の国で
詠んだ歌、陸奥の国の地名の入っている歌も紹介します。これまでに
紹介したことのある歌は参照としてマガジンの号番号だけにとどめ、
初めての歌は通常のように記述することにします。

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     みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、
     所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、
     秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、
     名残おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

03 白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
    (岩波文庫山家集129P羈旅歌・新潮1126番・西行上人集・
         山家心中集・新拾遺集・後葉集・西行物語) 

○白川の関

白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
陸奥の白河の関、勿来の関、そして出羽の国の念珠が関を含めて
古代奥羽三関といいます。

「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
                (福島県の歴史散歩から抜粋)

ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。

朝廷の東進政策、同化政策によって早くから住んでいた蝦夷と呼ば
れていた人々との対立が激化していきました。その過程で朝廷側
からすれば関は必要だったのですが、730年頃には多賀城が造られ、
800年代初めには胆沢城ができ、朝廷の直轄支配地は岩手県水沢市
付近にまで伸びていました。そうなると、白河の関は多賀城や胆沢城
に行くための単なる通過地点にしかすぎなくなります。前進基地と
しての軍事的な関の役割もなくなってしまって、いつごろか廃されて
関守りも不在となりました。

能因と西行では130年の隔たりがあります。西行の時代でも関の
建造物が残っていたということは奇跡的なことなのかも知れません。
あるいは能因の見た関の建物と、西行の見た関の建物は同一のもの
ではないのかも知れません。能因の時代以後に新たに関屋を建てる
可能性はほぼ考えられないので、同一のものであろうとは思います。

この関はどこにあるかよく分かりませんでしたが、白河藩主松平定信
(1758〜1829)が1800年に古代白河の関跡と同定して「古関蹟」という
碑を建てました。1959年からの発掘調査によってもさまざまな遺物が
発見され、「白河の関」として実証されています。
この関の前を東西に通る県道76号線が古代の東山道に比定されますから、
能因や西行もこの道をたどったものと断定して良いものと思います。

現在は関の森公園として整備されています。隣接して古刹の『白河神社』
があります。私が08年4月14日に行ったときはカタクリの花が群生して
いました。

ちなみに「白川」の「川」は現在では「河」の文字を当てますが、平安
時代当時はどちらでも良かったものと思います。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。

○関屋

白川の関に付随して建てられた施設。

(03番歌の解釈)

「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」

「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
(守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
        (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

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      みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す
      山の侍るに、こと木は少なきやうに、櫻のかぎり
      見えて、花の咲きたるを見てよめる

04 聞きもせずたはしね山の櫻ばな吉野の外にかかるべしとは
        (岩波文庫山家集132P羈旅歌・新潮1442番)

○たはしね山
    
岩手県東磐井郡東山町にある束稲山のこと。標高595.7メートル。
北上川を挟んで南側に平泉町があります。
西行の時代とは違って現在の束稲山に桜は少ないとのことです。
現在は躑躅の名所とのことですが、桜も植林しているそうです。

○こと木

桜以外の木のこと。

○聞きもせず

これまで聞いたことがなかった、ということ。

○かかるべし

これほどまでに素晴らしいものとは、という意味。実際に束稲山
の桜を眼にしての感嘆の言葉です。

(04番歌の解釈) 

「聞いたこともなかった。束稲山は全山が桜の満開でとても
美しい。吉野山以外にもこんなところがあったなんて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 
「はじめて束稲山の桜を見た第一印象の驚異感を、素朴に歌った
ものとしてとるのが妥当である。」
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

「(ききもせず)と初句切れでうたい出し、(よしののほかに
かかるべしとは)と、感嘆符で止めたところに、西行の驚きと
悦びが感じられ、詠む人を花見に誘わずにはおかぬリズム感に
あふれている。」
             (白州正子氏著「西行」から抜粋)

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05 奧に猶人みぬ花の散らぬあれや尋ねを入らむ山ほととぎす
         (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1443番)

○奥に猶

束稲山の奥には猶、桜が…の略。

○人みぬ花

人に見られない桜。人が見たことのない桜のこと。
普通ではない山桜とも解釈でき、珍しい桜の意味もありそうです。

○尋ねを入らむ

桜を見に訪ねて行きたいという希望です。

(05番歌の解釈)

「春が過ぎてもこの更に奥だったら、誰も見たことがない
珍しい桜が散らずにまだ咲いているのかなあ。山時鳥よ。
一緒に探しに行こう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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     奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奧國へ遣は
     されしに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語
     すれば、涙ながす、いとあはれなり。かかることは、
     かたきことなり、命あらば物がたりにもせむと申して、
     遠國述懐と申すことをよみ侍りしに

06 涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
           (岩波文庫山家集131羈旅歌・新潮欠番 
                 西行上人集・山家心中集) 

○奈良の僧、とがのこと

奈良の僧侶15名が悪僧として陸奥の国に配流となったのは1142年
のことのようです。西行26歳の年に当たります。
これにより「涙をば・・・」歌は初度の陸奥の旅の時の歌とする
説が殆どです。
「西行の研究」の窪田章一郎氏は詞書から受ける印象や山家集に
なくて西行上人集に採録されていることを挙げられて、再度の
陸奥の旅の時の歌であると推定されています。
 
○かたきこと

この歌には「かたき」というフレーズがあります。しかし詞書の
性質から考えて「かたき」ではなく「ありがたき」でなくてはなら
ないでしょう
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